思い切った行動とそこに意志のある姿が勇ましい、日本をテーマに革靴づくりに取り組む、野嶋さんの愛と勇気の物語。
ストーリー−STORY
剣の道から靴づくりへの道
北林:でははじめに、自己紹介と、どんなお仕事をされているかを教えてください。
野嶋:私は、20年以上剣道に打ち込んだ後、デザインや靴の勉強を学校ですることなく、いきなり業界に飛び込んだ者でして。そこで、とにかく自分で何かを生み出す経験をしたことがあるものを、と思い、テーマを「日本」と設定したところから始まります。
北林:剣道の道に進むという可能性もあり得たところを、どうしてまた革靴を作るというところに?
野嶋:大学を卒業して地元に戻っていた期間に、国体の強化選手として稽古には行ってました。ただ当時は仕事もしていなかったので、ほかに本気で取り組める何かを見つけようという決心の上で、剣道の道には進みませんでした。そして、ファッションが好きだったことと、自分の性格のことも考慮して、「革靴」だったらひとりでできそう、まだ新しいジャンルが開発できそう、と思い、革靴を作るという道を選びました。その後、浅草が革靴で有名なことを知っていたので......いきなり引っ越しました!剣道は現在、エクササイズで行うくらいになりました。
北林:就職先が決まって?
野嶋:そうじゃなくって、靴屋になろうと思って(笑)。でも願望だけでは就職できず、何社か落とされたのですが、そこである一社になんでもいいからやらせてくださいと面接で食らいついた結果、そこに就職しました。
北林:何年くらいそこで修行を?
野嶋:婦人靴メーカーだったんですけど、最初の2年は靴磨き、トータルで7年弱勤めました。
北林:そこで色々学んで靴職人になっていったんですか?
野嶋:違うんです。メーカーなので働く人にはそれぞれの役割や仕事があって、何も知らない若造の相手はしてくれず、夜自宅で自力で作ってました。会社のミシンを使いたかったので、残業の後の勉強の時間にさせて欲しいとお願いをして。
北林:師匠はいない状態?
野嶋:そう、「型紙」だけですね。
北林:そこからどのように靴を作る人になっていったんですか?
野嶋:独立したいという目標があってメーカーに入ったので、そこでのすべての仕事ができなければいけないだろうと思い、あらゆる現場に顔を出して仕事させてもらいました。その結果、靴を取り巻く全体を学ぶことができました。それができるメーカーだと分かっていたからこそ、面接で食らいついたんです。
北林:食らいつかなかったら、実家に戻っていたかもしれないと......ご縁ですね。
野嶋:これまた不思議で、創業者の息子さんが自分と同じ名前らしく。更に、靴をやりたいと自分の言った年が息子さんの亡くなった年だったそうで。そんなこともあり、入れてもらえたのではないかという話を、辞める直前に聞きました。
北林:すごい! 運命ですね。そうして独立につながっていくんですか?
野嶋:夜、つくり貯めた靴を代官山のギャラリーで展示してみようと、どのくらい受注があるだろうかわからない中挑戦してみたら、50万件の注文を頂いて。これならなんとかなるかもしれないと前向きになって、メーカーを辞めて、当初から決めていた、日本をテーマにしたモノづくりをするにあたって、何が大事かを考えた末、環境だろうと思い、世界中で京都以上の場所はないだろうと引っ越してきました。
北林:思い切りがいいですね。
野嶋:しかも工房決めずに(笑)とりあえず行動でしたね。
北林:メーカーを辞めた時のまわりの反応はどうでしたか?
野嶋:相談役になってくださって、背中も押してくれました。懐の深さを感じます。
靴を作るに適した京都という場所
北林:次に、現在の西陣に構えておられる工房についてお聞きしようと思います。 建物の改造は自ら?
野嶋:改造というより、ぶっ壊した、ですね。いたちの巣のような場所だったんですけど、大家さんにどう使ってくれてもいいと譲っていただいて。1階で作って、販売は2階でという造りにしました。制作に集中できるように考えた結果です。
北林:普段、創作のヒントはどこから?
野嶋:もし靴屋になってなかったら、日本史教師を目指したかもしれないほど歴史が好きなんです。幼い頃、歴史の本をたくさん読んだ影響で、根源的なことを考えるときに、ルーツや歴史に答えを求めることが多いです。京都には、神社仏閣や山、川など、全身で歴史や風景を感じられる場所がたくさんで、ヒントが多くありました。
北林:新しいものも生みつつ、1200年前と変わらない営みが今日にもあるのは、京都ならではだと思います。
野嶋:時間は買えないですものね。
北林:名言ですね。
ご縁で始まる新しいこと
北林:人とのご縁をつないできた野嶋さんですが、最近コラボレーションをしたSOU・SOUさんとのご縁についても伺います。
野嶋:きっかけは、革靴づくりの教室の生徒さんにSOU・SOUでインターンをしている人がいて、ちょうど新しい靴のデザインも考えていたところだったので、とりあえずその人に「こんにちは」って挨拶をして、その後直接お店にいって「社長に会いたい」と申し出ました。
北林:そんなきっかけだったんですね。
野嶋:コラボレーションした足袋の形の革靴は最初、後悔するくらい難しいデザインだった上に、誰も履きたいと思わないのでは、と思いました。ただ、日本で、そして京都で、作ることに意味があると思い、とりあえず作っちゃおうと。
北林:気負いがあるわけでもなく「とりあえずやっちゃう」ことが野嶋さんのこれまでに共通していることのように思います。
野嶋:すごい人は世にたくさんいるので、できることの枠を増やしていこうと日々取り組んでいます。
北林:現在は教室と、靴を作る2事業ですね。教室に通う人はどのくらい?
野嶋:在籍は15人ほど。教室では、靴って簡単に作れることを伝えたくて。
北林:他にスタッフはいらっしゃいますか?
野嶋:最初の頃、掲載された京都を紹介する雑誌がよく売れて、その恩恵もあってか、オーダーの採寸をするのに列ができたんです。その時に手伝ってくれる方がいて、後に仲間となりました。とても熱心な方で、うちの教室の他にも靴づくりの教室に通って、何段階かの勉強をして、うちのスタッフになってもやっていける自信をつけてから、正式に入社してくれました。
北林:土御門仏所の三浦さんの余った木材を使うなんてこともありましたが、モノづくりの際に工夫していることはありますか?
野嶋:物はなるべく捨てずに、長く使い続けるということを前提に仕事をしてきました。ある時、大阪の仏師さんを訪ねた時に、仏像を彫る過程で出る破片がいい香りがして、捨てると言うので、もらって帰ってきたことが始まりです。木には防虫・消臭効果もあることもわかり、麻袋に木片を入れて革靴の消臭剤にすることを思いつきました。
北林:自然からの頂き物を余すところなく、使い切るという日本文化のエッセンスが野嶋さんの靴づくりの姿勢から伺えますね。
野嶋:もともと「動物の革を使う」という人間の英知に感銘を受けて革靴を作り始めたことがあるのです。
北林:面白い。そのようにものづくりをしている人が近所にいるのは、街を豊かにすると思います。では最後に、今後取り組んでいきたいことはありますか?
野嶋:いくつかあるのですが、ひとつは身長と体重は身体測定で調べますが、足のサイズや足形は調べませんよね。そこに着目して、幼少期から足のことを把握してもらえるよう足の採寸を推進させる活動をしていきたいと思っています。大人になってから、足のことで悩む人も多いので。
それから、オンラインで楽しみながらモノをつくれるコンテンツを作りたいです。自分の場合は革製品に特化して。できることは自分でやる社会の方が、健全だと思うのです。
プロフィール
吉靴房 つくりて 野嶋孝介
1975年愛知県に生まれ、静岡県藤枝市育。学生時代から剣道に明け暮れる毎日を過ごす。24歳のころに剣道を離れて靴の町・浅草へ。浅草では女性のエレガンス靴を製作するメーカーに勤め、製造企画を担当しながら、手づくり靴の技法を半ば独学で身につけた。ヨーロッパからの輸入文化としての「靴」ではなく、日本、そして京都という土地の風土気候や歴史に合わせて独自の靴づくりをしたい――、そんな考えに駆られて、京都西陣に念願のアトリエ兼ショップ「吉靴房」を開設。
聞き手:北林 功(DESIGN WEEK KYOTO ファウンダー)
COS KYOTO(株) 代表取締役/コーディネーター
(一社)Design Week Kyoto実行委員会 代表理事
2010年、同志社大学大学院ビジネス研究科に入り、「伝統産業グローバル革新塾」に学び、現事業のベースとなる「文化ビジネスコーディネート」のプランを構築する。2013年、COS KYOTO株式会社を設立。国内外への販路開拓や商品開発、戦略構築、PRサポート、交流イベントの開催や人材育成など、地場産業をグローバルな「文化ビジネス」とし、世界を楽しくするためのコーディネートを手がけている。